◆ 小野沢宅での生活
「大事な文豪をどうかたのむ。」
古田からそう言われ迎え入れた太宰、ここでもやはり酒。
小野沢氏は各所、時には川越まで出向いて奔走、日本酒や
ウイスキー(角瓶)を探し回っていました。
しかし、生活はいたって規則正しいものだったようです。
朝九時頃に起床し食事、十一時頃から仕事をはじめ、
午後三時か四時には必ずしまっていました。
夕食の時は、酒を飲む時間が多少多いくらいでした。
「そりゃ静かなもんで、ウイスキー飲んでいたって、
いるんだか、いないんだかわからないぐらいでしたよ。」
「あの方は、身なりなんかまったく飾りませんでね。
セーターひっかけて、ぼうぼうの髪でね。」
ある日は、
「生気のない顔で、床柱に寄っかかって、
目をこうつぶりましてね。暫くそうやっているんです。
偶然見えたんですが、何か恐ろしい感じがしました。」
ありし日の小野沢氏ご夫妻は語って下さいました。
熱海の起雲閣にいた頃は三、四枚しか掛けなかった原稿が、
ここでは一日に五枚も六枚も書けたようです。
◆ 大宮でも風呂好き
松の湯
太宰の風呂好きは有名ですが、小野沢宅のすぐ裏には「松の湯」という
銭湯がありました。
前は氷川神社の参道、そして参道の両脇には闇市が並んでいました。
風呂の帰りに、
「ご主人、今日はこんなのもが売っていましたよ。」
嬉しそうに、うなぎの肝串を手に帰ってくる事もあったようです。
◆ 小野沢氏の姪、藤縄さんには
当時小野沢さんと同居し、女学校に通う十八歳の藤縄さんは、
その頃、食事の世話などをしていました。
「第一印象は暗い寂しそうな感じでしたが、
話を始めるとおもしろく、話題は豊富でした。
氷川様に闇市があったので、散歩の時、ご一緒したことがありますし、
駅の近くの映画館へお供したこともあります。」
「先生はあっさりした料理をさかなにお酒を飲んで、
そのあと、おにぎりに漬物が好きで召し上がっていました。
『人間失格』が書きあがった時、私に
「できたよ。信子さん。」と実に嬉しそうにおっしゃっていました。
「先生、おめでとうございます。」と申し上げましたら、
「ありがとう。」と、いかにもほっとした表情で、安らかな笑顔でした。
それは印象的で忘れられません。」
◆ 美知子夫人へ手紙
この地から、美知子夫人へ二通の手紙を出しています。
・五月四日
無事大いに食すすみ、仕事も順調なり。
だいたい十日ごろかえる予定。
るす中は、うまくすべてやっておいてください。
この住所、だれにも教えぬよう、「筑摩に聞け」と言いなさい。
・五月七日
無事のよし、安心。万事よろしくたのむ。
荷物、石井君から受け取る。リンゴは、もういらない。
ここの環境なかなかよろしく、仕事は快調。
からだのぐあいはなはだよく、一日一日ふとる感じ。
それで、古田さんにたのんで、もう五日、
つまり十五日帰京ということにしました。
十五日までに「人間失格」全部書き上げる予定。
十五日の夕方に、新潮野平が仕事べや(チグサ)で待っていて、
泊り込みで口述筆記、それゆえ、帰宅は十六日の夕方になる。
それから、いよいよ朝日新聞ということになる。
からだのぐあいがいいので、なはなだ気をよくしている。
何か用事があったら、チクマへ電話しなさい。
※ 朝日新聞・・・「グッドバイ」のこと
◆ 大宮への再訪を約束
『人間失格』を脱稿したのは5月12日。
太宰は荷物をまとめ、三鷹へ帰っていくのですが、小野沢さんに、
「あの部屋は貸さずにおいて下さい。
次の「グッドバイ」も、ここで書き上げたいので。」
そう言い残したのだそうです。
この大宮という地が、太宰は気に入り、また来たいと思える、
安らぎのある場所だったのです。
その一ヶ月後、6月12日に太宰はひとりで大宮を再訪しています。
そして、次の日の夜、玉川上水に身を投げる。。。。。。