鴻巣さんぽ版 第 七 の 巻 音源はこちら


鴻巣市の西側に、「荒川」という、とても大きな川が流れています。

堤防や橋の上からの眺めは、とても雄大です。

私も時折(ときおり)、さんぽで訪れるのですが、本当に心が落ち着きます。

でも、こんなにゆったりとした、静かな流れなのに、なぜ「荒川(あらかわ)」

って言うんだろ?

そんな疑問を調べているうち、戦国時代に、今の首都東京の礎(いしずえ)

となる、ビッグプロジェクトを成功させたすごい人が、鴻巣市と関係があると

いう事がわかりました。

今日は、その方のお話です。

1582年5月、徳川家康くんは、上司、織田信長くんから

「新しい家を新築したんだけどぉ、うちに遊びに来ない?」(信長くん)

と誘われ、信長くんち、安土城(あづちじょう)を訪ねていました。

高い石垣の上に、大きな天守閣を建てるというスタイルのお城は、現在では

当たり前ですが、当時はそのようなスタイルは初めての事で、てっぺんから

見る、琵琶湖の眺(なが)めは、そりゃあもう、素晴らしいものでした。

3日間の滞在期間のあいだ、家康くん一行のお世話をしたのは、明知光秀

(あけちみつひで)くんでした。

光秀くんは、食事、酒、オンナ。。。至れり尽くせりで、もてなしてくれました。

家康くんは、大満足でお城を後にしました。

「でも、せっかく来たんだから、もう少し遊んで帰りたぁい!」(家康くん)

そんなわがままに、家康くんの家来たちは、京都、大阪の旅にお付き合い

することになります。

京都では、新緑の中で、生八橋(なまやつはし)と抹茶などを頂きながら、

わび・さびの心に触れ、そして、大阪では、うまいものを食い倒れ!

そんなのんびり遊んでいる6月2日、ビックリ情報が飛び込んできます。

「信長くんが、光秀くんに焼き討ちにあったそうっす!」(家来のひとり)

そうです、あの「本能寺の変」が起きてしまったのです。

「つい先月、会ったばかりのふたりが?!どうして??」

家康くん、そんな事より、早く逃げないとヤバイっしょ!

だって本能寺って言えば、京都のお寺ですから、ここ大阪から、自分の家

三河に(みかわ)に帰る途中の、帰り道じゃないですか!

だから、さっさと帰れば良いのに!って思っても、あとのまつり。

いったいどっちに逃げればいいのぉ?って、うろたえていた時に、見事に

敵から見つからず、三河までの道案内をした、ひとりの家来がいました。

伊奈忠家(いな ただいえ)くんです。

家康くんは、彼のこの大きな功績をたたえて、三河の幡豆郡(はずぐん)

小島(こじま=現在の西尾市)というところに、お城を建ててあげました。

その時に一緒に、小島のお城に来た、忠家(ただいえ)くんの息子である

忠次(ただつぐ)くんは、家康くんより7歳年下、年が近いこともあって、

家康くんからは、ずいぶんと可愛がられたようです。

「僕はねぇ、君のお父さんにはねぇ、ず~いぶんと世話になってねぇ」

(家康くん)

これって、逆にプレッシャーには、ならなかったのか?

息子、忠次(ただつぐ)くんは、素晴らしい土地勘(とちかん)で家康くんを

助けた父の血筋(ちすじ)なのか、検地(=農地区画の調査)や、新しい

田畑の整備、河川(かせん)の灌漑(かんがい)など、あらゆる「土地」に

関する仕事では、大きな成果を上げて、上司秀吉くん、家康くんたちから

深い信頼を得ていました。

1590年に、家康くんが江戸に移り住んだ頃、一番の困りごとは、「水害」

でした。

当時の江戸は、利根川、荒川、渡良瀬川(わたらせがわ)と、大きな川が

複雑に入り組んで、東京湾に流れ込んでいたので、ただでさえ、土地が

低い所に、ひとたび大雨が来ると、水害で多くの被害を受けていました。

この時に、すぐ家康くんの頭に浮かんだのは「土地改良のスペシャリスト」

忠次(ただつぐ)くんでした。

「江戸から水害をなくすには、いったいどうしたらいい?」(家康くん)

忠次(ただつぐ)くんは答えました。

「そんじゃ、江戸から川をなくしましょう!」(忠次くん)

そんな突拍子もない事を、簡単に言ってのける、それには、灌漑事業に

絶対の自信があったからなのです。

忠次(ただつぐ)くんは、武蔵国(むさしのくに)小室(=今の伊奈町小室)

に居を移し、この大事業に取り組みます。

そして、この広い関東平野の全体像をはっきりと調査し、壮大な計画を、

コンサルティングします。1594年のことです。

忠次(ただつぐ)くんは、まず、当時利根川と江戸川が合流していたのを

切り離して、西に向かって流れていた鬼怒川(きぬがわ)に付け替えて、

利根川の流れを、江戸から逃がしました。

つまり、千葉県と茨城県の間に流れる、今の利根川の形にしたのです。

そして、暴れ川と呼ばれていた「荒川」を、もっと西側に大きく作り替えて

流れがゆったりとする、広い河川に切り替えました。

今も、吹上駅周辺に桜の名所として残っている元荒川(もとあらかわ)は

忠次(ただつぐ)くんが、大改修を行なう前の荒川のなごりです。

この一大スペクタル事業は、息子の忠治(ただはる)くんにも受け継がれ

60年の歳月を経て、見事に完成しました。

これにより江戸は、水害もなく、多くの人たちが安心して住む事ができる

場所となったのです。

それだけでなく、河川が整備された事により、船運(せんうん)事業も盛ん

になり、郊外から作物や物資を江戸へ送る「船の道」として、荒川は重要

な役割を果たして来ました。

鴻巣市から、おとなり吉見町へ抜ける御成橋(おなりばし)が、日本一の

川幅の橋なのは、ここが、年貢米を荷下ろしする、中継基地となっていた

からなのです。

この船運事業は、昔から鴻巣が栄えた、理由のひとつでもありました。

忠次(ただつぐ)くんは、家康くんが、1600年に天下を取って江戸幕府を

作ったあとには、側近(そっきん)として、幕府の、財政と農政を、一手に

引き受ける、たいへん重要なポストとして活躍しました。

まさしく、家康くんの「右腕」だったのです。

家康くんは、忠次(ただつぐ)くんが1610年に亡くなったあと、鴻巣市の

本町の勝願寺(しょうがんじ)に、立派なお墓を建てる事を指示します。

勝願寺の中、代々のお墓が立ち並ぶ墓地の中でも、ひときわ目立って

見えるのは、忠次(ただつぐ)くんと、その意を告いで事業を完成させた

息子、忠治(ただはる)くんが並んで眠るお墓です。

どんなでかい「ビッグプロジェクト」でもお手のもの、そんなBIGなオトコを

目指したいあなた!

おふたりのお墓を訪ねてみてはいかがですか?



( 第七の巻 おわり )


今日のさんぽの一品

で、さんぽの一品です。

今日は、私のご用達のお店のひとつ、リカーショップ福田屋さんをご紹介

します。

勝願寺から中山道に出て、少し南に向かったところに、お店はあります。

酒屋さんって、どちらも、かなりのこだわりを持ったご主人がいて、私は

好きなんですが、こちらのご主人は、お酒の味だけでなく、“体に優しい”

をモットーに、無農薬・減農薬の原料、昔ながらの製法で作られたお酒

ばかりを、扱っていらっしゃいます。

「作られた香り」のお酒ばっかりが目立つ、昨今の、ご時勢(ごじせい)に

「あぁ、“日本酒”ってお米で作られているんだ」と、あらためて感じさせる

そんなお酒が手に入ります。

その極みが、千葉県の寺田本家(てらだほんけ)さんのお酒、「むすひ」。

なんと精米100%!つまり、精米していない、“玄米のまま”のお酒です。

どんな味かって?う~ん、うまく説明できないんですよねぇ。

もちろん、ワインも、ビールも、焼酎もそう。

今みたいに、芋焼酎がはやる、もっと前から、本当に美味しい芋焼酎を

私は、こちらのご主人にご紹介頂いて、飲んでいました。

「魔王」よりも「森伊蔵(もりいぞう)」よりも「佐藤」の黒よりも、もっともっと

美味しい芋焼酎をね。ふふ。。。

そういうお酒は、ご主人が自ら酒蔵(さかぐら)へ足を運び、交渉に交渉

を重ねて、分けてもたっらものが大半だそうです。

あんまりご紹介しちゃうより、まず行ってみて、ご主人と酒談義を交して

自分の好みに合ったお酒を探して下さい。

ついつい長居しちゃうよ。

「びっくりひな祭り」を見て、そのお帰りに、ぜひ!


■ 旅の情報

〇 勝願寺 ( 伊奈忠次、忠治のお墓 )
住所 : 〒365-0038
埼玉県鴻巣市本町8-2-31
電話 :048-541-0227

○ 酒の福田屋(美味しいお酒が手に入る)
住所 : 鴻巣市人形1-6-14
電話 : 048-541-0239
営業 : 9:00~21:00 月曜日定休

※ 酒の福田屋さんは、2008年で閉店しました。



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